『100分de名著 スピノザ エチカ』絶妙にわかりやすい驚異の入門書

エピグラフをどう扱うべきか?

先日編集者として関わった翻訳書の中でフランス人の原著者が、スピノザの『エチカ』の一節を巻頭に引用していました。
エピグラフというそうです。
翻訳書でこういうパターンは時々みかけます。
しかし当初は、『エチカ』を実際に読むことになるとは思いませんでした。

原著には、スピノザが書いた言葉がフランス語で掲載されています。
『エチカ』を日本語に翻訳したものは、岩波文庫などで出版されています。
ただし、スピノザはもともとラテン語で『エチカ』を書いたようです。

引用されている一節は有名な箇所でしたので、翻訳した日本語はこれまでにいろんなケースを見つけることができます。その訳にそんなに大きな差があるわけではありません。

翻訳者はそういう経緯もわかった上で、訳してくれました。
ただし、「これまでにさまざまな翻訳者の方がこの一節を訳してきている。それを考えたときに、どう訳すの適切かどうか?」と質問されました。

有名な言葉の翻訳という難題

たとえば「きよしこの夜」という歌があります。
Wikiなどによると、もともとはドイツ語の歌が英語に訳されたのが「Silent night」。
日本語の歌詞は由木康さんという方の手によるもののようです。

たとえば英語の本の中にこの歌詞が引用されていた場合に、その訳をどう扱うべきでしょうか?

小説の中で、子供がクリスマスに歌っているようなシーンであれば、

「き~よ~しこ~の夜」

というよく知られている翻訳のままでよいはずです。

でも、もっと宗教的な意味合いの強い本などで取り上げられていたら、別の訳のほうがよいかもしれません。

結局最終的には、引用されている言葉がどういう意図で発せられたのかを、極力把握しないと正しい判断はできないということになります。

驚きの面白さ

とはいえ、スピノザの『エチカ』です。
試験に出てくる言葉として暗記したことはあるものの、全く何なのか私は知りませんでした。それでもとりあえず、少し読んでみなければと思いました。
そうして、岩波文庫の『エチカ上下』と一緒に買ったのがこの本でした。

『100分de名著 スピノザ エチカ』國分功一郎、NHK出版、2018年

正直買った時点では、たとえ読んだとしても『エチカ』もスピノザの思考も全く理解できないであろうと思っていました。
仮にある程度理解できたとしても、なんの感慨も持たないだろう、と思っていました。
全然期待はしていなかったのです。

ところが驚いたことに、面白くて4時間くらいで読み終わりました。
非常に発見が多くて、人生の中でスピノザの思想に触れることが出来てよかった!とも思いました。
そのくらいによくわかり、スピノザの思考を面白いと思わせてくれる本だったのです。
衝撃的でした!!

初級者コース向けのバランスが絶妙

この本は、Eテレで2018年に4回にわたって放送された「100分de名著」のテキストとして作成されたものです。

もちろんこの本の面白さの根本は、著者の國分功一郎先生が、一般の人にもわかりやすい言葉で『エチカ』を語ることができる方であった、ということにあります。

ただ、その國分先生も、話す相手がテレビの向こうの一般の人なので、
「こう言っても伝わらないかもなあ、それじゃあここはこう伝えよう、、、」
と考えて、表現にはいろいろな工夫をしたはずです。

『エチカ』に初めて挑む、スキーやスケートでいえば「初級者コース」みたいな人たちが、いかに興味を持つかを考えて構成し、このテキストが出来上がっているのだと思います。

番組の担当者やテキストの担当者も、その内容には関わっているたはずです。
そういった方のサポートもあって、この驚異の本が出来上がったのでしょう。

なんの前知識もなく『エチカ』を読むことの難しさに比べて、この本を読んでからの『エチカ』の興味深さは雲泥の差がありました。

人生の中で『エチカ』を面白いと思う日が来るとは! と今でも思います。
シリーズの他の本を読めば『エミール』も面白いと思うのかもしれません(^^)

この本の面白さは、『エチカ』という著作と、それをテレビだからいつも以上にわかりやすく伝えようとする國分先生、そういう幸福な出会いがあって、生まれているのだろうと思います。

読んだ結果得られたこと

編集者として関わった翻訳書の、巻頭に引用されていた言葉についての続きです。

『100分de名著』を読んだあとに、岩波文庫のほうを読んでみました。
そうすると、引用されている部分の前にもいくつかのくだりがあり、引用部分が現れることがわかりました。
『100分de名著』で勉強したことと前の文章からの流れを考えあわせると、エピグラフは次のような意味と考えられました。

「この世の、非常にすばらしく尊い行いというものは、なかなか実現されるものではないし、それを行うのは非常に難しいことである」

この考え方は、まさに原著者のアーセン・ヴェンゲル監督が本の中で書き、またその人生の中で行ってきたことそのままでした。非常にストイックに生き、サッカーに人生の全てを捧げ、イングランドのプレミアリーグで無敗の優勝という途轍もない偉業を達成した人なのです。

「そうか、ヴェンゲル監督はこの言葉の意味をきちんと理解し、時には自分の励みにしてきたかもしれない。そういった経緯の上で巻頭に引用したのだ」と非常に感動しました。
また、今回翻訳してくださった三好幸詞さんの翻訳も適切なものと判断できました。
こうして、巻頭の引用は翻訳者からいただいた原稿のまま印刷されることになりました。

この文章を読んで興味を持たれた方はぜひ下記リンクからどんな本か見てみてください。

スピノザのエチカを巻頭に引用しているヴェンゲル監督の自伝『赤と白、わが人生』

 

hosokawakobo
細川生朗 Hosokawa Seiro
1967年生まれ。1991年に情報センター出版局に入社。『水原勇気0勝3敗11S』『いちど尾行をしてみたかった』『笑う出産』などのヒット作を編集。1994年に『きょうからの無職生活マニュアル』、1998年に『旅の指さし会話帳①タイ』を企画・編集。いずれも累計100万部以上のシリーズとなる。2001年に情報センター出版局を退職。その後、フリーの編集者として、実用書を中心にした単行本の企画・編集、自費出版の写真集や記録集の編集、社史の編纂などを手がけつつ、指さし会話帳シリーズの編集も続けている。