『タミル語学習30日LEARN TAMIL IN 30 DAYS』語学初心者への思いが見える

マレーシアで出会った本

海外旅行が好きで、なかでも一番好きで学生の頃から通いつづけてきた国はマレーシアです。

マレーシアは多民族国家。
マレー語を話すマレー系の住民、中国系住民、インド系の住民に、原住民族も暮らしています。
インド系の住民の間ではタミル語が使われていて、街中でもその表記をよく見かけます。

そのマレーシア、クアラルンプールの古書店で2010年頃に買ったのが、この本、『LEARN TAMIL IN 30 DAYS』(N. Jegtheesh著)です。
出版社はインド、マドラス(現チェンナイ)のBalaji Publications。
初版は1968年1月で、この本は1969年2月刊行の第3版となっています。

外国人向けのタミル語学習書

この本の序文に、本が作られた経緯が書かれています。

8月のある日、マドラスのマウントロードの書店でアメリカ人が買い物をしていた。
店員はできる限りに英語で対応したが、少ししか通じなかった。
しばらくして店主が来たので、著者がその経緯を話すと、
「なんでオレたちが英語を話さないといけないんだ? 旅行者がオレたちの言葉を話してくれればいいのに」と言う店主。
そこから、外国人が簡単にタミル語を勉強するための本を、著者が書くことになった。
、、、ということのようです。

インドにはたくさんの公用語があり、英語も広く使われています。
1960年代に旅行していた外国人がタミル語を勉強するのは難しかったでしょう。
テキストもほぼなかったと思われます。

そういう中で、作られることになったこの本は、「画期的な本」「初めての本」と受け止められたようです。この本は第3版なので、第1版の刊行の後の反響も収められています。

今のように、ネットであらゆる情報が手に入る時代とは全然違って、書籍が情報伝達の上で大きな役割を果たしていた、そういう時代に刊行された本なのです。

マレーシアに住むインド系住民のなかには、文字を読み書きできない人も多くいたはずで、そういった人たちが自分の母語を学ぶために、手にした、そういう本なのではないかと思います。

判読しにくいけれど何か楽しい

本には、作り手の高揚感みたなものが乗り移るところがあります。
この本全体から漂うのは、どこか楽しげな印象です。

「画期的な本」「初めての本」を作るんだ!というパッションみたいなものが、ページを開いたときにどこか伝わってくるのだろうと思います。

活字を組んで、わら半紙みたいな紙に印刷されているので、つぶれ気味の文字も多いです。
今のきれいな印刷の読みやすさとは比べものになりません。

構成も、今の親切な語学書に比べたら親切なものではないです。
でも、この、どこか楽しげな印象は語学のような本には大切なものだと思います。

ただでさえ語学を勉強するのは苦行と思う人が多いもの。
難しい印象、楽しくない印象は避けたいものだからです。

語学書では普遍的な問題

ある言語の発音を他の言語の文字で表記しようとすると、必ずうまくいかない箇所が出ます。
英語のRとLの発音がカタカナでは書けない、といった問題です。

この本でも〜〜この後の行、タミル文字なのでうまく表示されないかもしれません〜〜

அ, ஆ, எ

という3つの文字について、第1版では、A、Aの上に長い棒、Aの上に短い棒、と分けていたけれど、見分けにくいので第2版では変更したと書いてあります。
私も語学関連書を作るときに苦労したことがあるので、1960年代のマドラスで同じような苦労した人がいることは何か嬉しく思いました。

手書きで作られた「タミル文字の書き方」の図版

この本の中で、いちばん胸にぐっときたのは、タミル文字の書き方を解説するページです。
手書きの文字に、手書きで添えられた矢印。
むちゃくちゃわかりやすくて、しかも親しみやすいです。
文字の書き方の説明として、これ以上のものはないのではないか?
そう思うくらい素晴らしいです。

私自身も編集者として、文字の書き方の図版を作ったことがありますが、その時は活字にデータで作った矢印を添えました。
でもこの手書きの図版のほうが、はるかに親しみやすいです。
印刷された状態がきれいである、ということよりも、多少線がゆがんでいても伝わりやすい、ということがあるのです。

この本の場合には、当時の技術や予算の中で現実的な方法がとられた、という理由から作られた図版ではありますが、今も、このように手書きのほうがよい、という図版もあるはずです。
また、そういった手立てを考えることで、何か読者の心に残る仕掛けが作れるはずです。

図版は、印刷物の中で目立つ存在なので、工夫をしたり手間をかけたりして思いをこめると、読者の心になにかしらのインパクトを残すことができます。

タミル文字を初めて書く人に向けて、「こうやって書いてみて!」という思いで作られた手書きの図版。
そういう思いを込めて編集をしたいものだと思います。

hosokawakobo
細川生朗 Hosokawa Seiro
1967年生まれ。1991年に情報センター出版局に入社。『水原勇気0勝3敗11S』『いちど尾行をしてみたかった』『笑う出産』などのヒット作を編集。1994年に『きょうからの無職生活マニュアル』、1998年に『旅の指さし会話帳①タイ』を企画・編集。いずれも累計100万部以上のシリーズとなる。2001年に情報センター出版局を退職。その後、フリーの編集者として、実用書を中心にした単行本の企画・編集、自費出版の写真集や記録集の編集、社史の編纂などを手がけつつ、指さし会話帳シリーズの編集も続けている。